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山形県産品ポータルサイト いいもの山形

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工芸から、デザインへ

山形の伝統的工芸品として、900年の歴史をもつ山形鋳物。そこにデザインというエッセンスを注ぎこみ、暮らしに欠かせない日用品でありながらも、ユニークでちょっと気になる存在として仕上げていく。そんな鋳心ノ工房のものづくりについて語ってくれたのは、同工房の代表を務める増田 尚紀氏。毎日使うものだからこそ、こだわりのある上質なものを揃えたいと願う、野中 葵が話を訊いた。

山形との出会い

野中:本日は、どうぞよろしくお願いいたします。増田さんは、静岡県のご出身だとお聞きしました。そんな増田さんが、山形で鋳物の製作に取り組まれるようになった経緯からお聞かせいただけますか?

増田:そうですね。ずいぶんと昔のことになりますが、僕たちが大学に通っていた頃は、学生運動というのが盛んな時代でしてね。大学が封鎖されてしまうと、講義さえも受けられない。そんななか、とくにお世話になったのが、芳武茂介先生でした。先生は山形県南陽市の出身で、東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業されると、当時の商工省が設立した工芸指導所が仙台にあって、そこに長く務められました。その後、東京に移り、デザイン事務所東京クラフトを設立し、私の母校である武蔵野美術大学の教授にも就任されました。

野中:そこで、先生との出会いがあるのですね。

増田:私は、大学を卒業後、芳武先生のデザイン事務所に5年間、お世話になりました。先生からは「デザインを学ぶのなら、まず産地に出向いてものづくりの現場を学べ」と指導され、全国の鋳鉄器や陶磁器などの製作現場を見て回りました。こうして全国各地の工芸品を扱う匠たちと接する機会が増えていきましたが、そのような出会いを通じて、現在も私自身の支えとなるような人的なネットワークを築き上げることができたのだと思います。加えて、先生がその創設に参加された日本デザイナークラフトマン協会は、当時、先生の事務所を間借りするかたちで事務局運営を行っていたんです。ですから、亀倉雄策さんや勝見勝さんをはじめ、日本のデザイン界や建築界を牽引するような方々が、事務所にお見えになる。そんな大先生たちの酒宴を準備したり、お茶汲みをしたりしながら、多くのことを学ばせていただきました。とっても恵まれた環境だったんです。

野中:山形に移り住むことになったのも、芳武先生の助言があったからでしょうか?

増田:そうですね。先生から「山形で2〜3年、鋳物づくりを学んでくるといい」と言われて、老舗の鋳物工房「菊地保寿堂」にて経験を積むことになりました。

野中:その2〜3年が、なぜか現在に至ることになる?

増田:菊地保寿堂では、やがて義父となる当主のもとで修業を重ね、伝統技法を学び続けました。住み込みで働く職人さんたちはすごい技術を持っていて、彼らとのコミュニケーションは不可欠でした。僕は山形弁がうまく話せませんから、もっぱらお酒の相手をしながら、コミュニケーションを深めました。この間、僕は自分の得意なデザインに力を注ぎ、20年間在籍した菊地保寿堂にて、600点ほどの作品を発表して「WAZUQU」ブランドを確立させました。

鋳心ノ工房の設立

野中:山形鋳物のデザインにも力を注がれた増田さんが、1997 年にご自分の工房を設立されることになるのですね?

増田:ひとつの役割を終えたと考えて、再スタートすることにしました。

野中:増田さんの著書「引き継ぐこと、伝えること」の副題に「山形鋳物のポストモダンを超えて」とあります。この言葉に込められた想いをお聞かせいただけますか?

増田:そうですね。いまはデザインというのが溢れている時代ですが、芳武先生たちの時代には、海外のデザインに学び、日本の伝統工芸をデザインで切り開いていくという使命をもって取り組まれていました。まだまだデザインのやるべき仕事が、たくさんあった時代なんですね。僕自身の仕事も、デザインという新たな技法を注いだ作品として注目されました。当時は、900年あまりの歴史を持つ山形鋳物も、現代に即応したアヴァンギャルドなものにしていかなければならないと、そういう志を持ってデザインしていました。しかしいま、そんなデザインも普通に受け入れられるものになってきています。それだけ日本のデザインも発展してきたということかもしれません。そしていま思うのは、伝統工芸品と呼ばれるものたちであっても、日常的に普段使いされていく。普段の暮らしを彩るものとして、多くの人に愛されるものであってほしいということです。鋳心ノ工房は、そんな想いをかたちにする工房でありたいと願っています。

山形鋳物と薄肉美麗

野中:そもそも私には、山形鋳物ってどんなものなの?という根本的な疑問がありまして…。同じく鉄器として有名な南部鉄器との違いについても教えていただけますか?

増田:確かに、鋳物として何を思い浮かべるかというアンケートを行ったなら、約9割の人が南部鉄器とお答えになるのでしょうね。これは私論ですが、やむを得ない事情があると思っています。南部藩というのは江戸期から明治になるまで南部家を藩主としてずっと続きましたが、山形藩は、最上義光さんから幕末の水野さんまで、二十数代もお殿さまが変わっています。最上義光は、商工業の発展を期して町割を刷新し、鋳物職人たちはひとつの町に集められ、銅町と名づけたそうです。

野中:鋳心ノ工房さんの工房も、銅町にありますね。

増田:はい。ただ、お殿さまが変われば、石高も重点施策も変わっていく。伝統工芸が必ずしも発展しやすい環境にはなかったのかもしれません。

野中:それでも山形鋳物は900年余りの間、途絶えることはありませんでした。

増田:そうですね。南部藩、いまの岩手県の釜石には、橋野鉄鉱山という鉄鉱石の採石場や高炉跡があリます。良質な鉄の素材が豊富に取れたんですね。このことが、南部鉄器が発展を遂げた大きな要因だと、僕は考えています。対して山形鋳物は、およそ900年前に源頼義が山形地方を転戦したときに、従軍していた鋳物師が、山形市内を流れる馬見ヶ崎川の砂と千歳公園付近の土質が、鋳物の型に最適であることを発見し、何人かがこの地に留まったことがはじまりといわれています。素材そのものではなく鋳物に使う型の材料があったから、山形でつくられるようになったんですね。このことが、山形鋳物ならではの高い技術と品質を支え、伝統工芸として受け継がれてきた所以だと思っています。

野中:鋳物づくりがこの地に根づいた要因は、その砂型にあった?

増田:そう考えるのは、僕だけではないでしょう。鋳物には鉄だけではなく、銅や錫なども使われました。昔は、銅と錫の合金であるブロンズ(青銅)を使って、お寺の梵鐘や灯籠など大型の鋳造品もつくられていました。また、昔の足踏み式のミシンをご存知ですか?あれはほとんどが鋳物でできているんです。鋳物でつくられた自動車の部品もありますね。こうして山形の伝統的な技術は、近代産業を支えるものへと発展していった。山形新幹線の椅子などにも、山形の鋳物が使われているそうです。

野中:そんな山形鋳物の、工芸品としての特徴を知りたいです。

増田:僕は、たたら製鉄で有名な島根県の吉田村(現在の雲南市吉田町)を訪ねたことがあります。そこで調べてみると、出雲のたたらで精錬された鉄を、北前船で山形に送っているんですね。鉄は山形の周辺では採れませんから、当時、鉄はすごく希少で貴重な材料でした。そんな鉄を外から持ち込んでつくるのですから、大切に使うという意識があったのでしょう。山形鋳物は薄くつくられるのが、特徴のひとつになっています。これを「薄肉美麗」の4文字で表現しますが、薄くて繊細なデザイン、そして砂型を使った美しい鋳肌が、山形鋳物の魅力なんですね。鋳物を薄くかたちづくるには、ものすごく高度な技術が求められます。そして表面の美肌には馬見ヶ崎川の砂が欠かせない。そんな伝統技術を守り続けた職人さんたちのプライドが、山形鋳物を育んできました。

鋳心ノ工房のものづくり

野中:鋳心ノ工房さんのWebサイトでは、「鋳物の伝統美を、今日の生活様式に提案するCASTING STUDIO」としています。この表現に込めた想いをお聞かせください。

増田:私たちがデザインしてつくったものを、現代の暮らしのなかに取り入れて使っていただくことが大切だと考えています。どこかに展示されたり、飾られたりするためにつくるのではなく、いまのライフスタイルに合わせたものづくりを重視して、多くのみなさんに使ってもらうことが、つくり手にとっても幸せなことだと思うからです。そうしなければ経営が成り立たないということもありますが、工房としての継続性をそこに求めたということなんです。とくに鉄という素材は、現代の生活から離れていく傾向にあリます。それをどうやって身近なものとしていくか、そこを原点としているわけです。

野中:それでは、そんな鋳心ノ工房さんのものづくりを象徴するような代表的な作品をいくつかご紹介いただけますでしょうか。それぞれの作品の提案性、あるいは、どのような利用シーンを想定しているのかも、ご紹介いただけると嬉しいです。

増田:それでは、二つご紹介させていただきます。一つは、わかりやすくいうのなら、鉄瓶ですね。僕の場合、ティーケトルとかティーポットと呼んでいるのですが、元々は鉄瓶が元祖なんです。薪で火を焚いたり、炭で火を起こしたりしていた頃は、羽広といって、羽が広がったような形状をした鉄瓶が使われていました。広がった羽によって熱を逃さずに受け止め、煙返しにもなるという機能的なデザインになっている。そして、火鉢のなかの五徳に鉄瓶をのせていたので、底が丸くても安定しました。いまはIH調理器を使うので、底を平らにして、IH調理器に反応しやすいようにしています。ライフスタイルに合わせた合理的なデザインとすることが大切なんですね。

野中:もう一つは?

増田:これは1980年に発表したものです。鉄をどう見せるかということを意識しました。日常というよりも、ハレの日に使って欲しいという想いを込めて、真鍮の金色をあしらっています。そしてこちらには、キッチンツールにはステンレス製のものが多いので、ハンドルやつまみにプライウッドという集成材を使いました。これもIH調理器を意識しています。IH調理器は炎が出ませんから、木の部分がダメージを受けることもなく、手で持つことができます。これは静岡で製造した集成材を旭川で加工しています。地産地消ですべてを地元でという考えもありますが、いまはそれが難しくなっている。芳武先生の教えもあって、北海道から沖縄まで各産地を見ていますので、日本各地のいいところを合わせたものづくりを行うことも大切だと考えています。

野中:そんな増田さんの作品は、海外の方々にも好評だと聞いています。

増田:海外からのリクエストが届きますので、それに対応するようにしています。海外、とくにヨーロッパの方々の鋳物に対する評価は、日本とはまるで違います。日本では、鋳物の重さはマイナスと捉える方が多いのですが、ヨーロッパの方に言わせると「心地よい重さ」だと。石造りの家をはじめ、重厚感のある品々に囲まれて暮らしてきたからか、あまりにも軽いものよりも、ある程度、重量感のあるもののほうが安心なのかもしれませんね。

野中:とくに20代から30代の若い女性たちが、増田さんの作品を生活に取り入れることで、期待される効果・効用などがあれば教えてください。

増田:鉄瓶などの鋳物の道具は、若い人たちの暮らしのなかで見かけることは少なくなくなっていますよね。だから、何でもいいので、ちょっとしたものから使いはじめてもらいたいと思っています。鉄の道具をたくさん置く必要はありません。鉄の鋳物が一つあるだけで、暮らしのアクセントになるので、そばに置いて使ってみていただきたい。僕が最近つくっているのは、栓抜きや香立、香箱、キャンドルスタンドのような非常に小さいもので、それは展示会でもカワイイといっていただけている。そういうものを手に取って、日々の暮らしに取り入れることで、次は別のアイテムも使ってみたいと思っていただけるような、そんなきっかけづくりをしたいと考えています。

野中:錆びとかを気にされる方もいらっしゃると思いますが?

増田:鉄は錆びやすい素材ですから、使ったあとは、柔らかな布で乾拭きをするなどの手入れは欠かせません。ティーケトルなども、素焼きをして錆びにくくはしていますが、錆びないものではありません。それはある意味、使い込んだ道具が育っていくということなんですね。そんな道具が織りなす物語を、そばで見守ってあげるのも、ひとつの愉しみではないでしょうか。

野中:福島の祖母も、鉄瓶をながく使い込んで、いつもお湯を沸かして白湯を飲んでいます。鋳物というのは、ながく使っていけるものなんですね。

増田:使い込んだものほど、安定しているし、ながく使えます。ヨーロッパでは、家で使い込んだ道具を、結婚する娘に託すという素晴らしい文化があるようです。そんないい鉄瓶があるんだったら、お嫁に行く時にもらっていくのもいいと思いますよ。

野中:不足しがちな鉄分がとれるとか、健康効果も期待できるのでしょうか?

増田:ある女性から、鉄瓶で淹れたお茶を飲んで元気になりましたという報告がありました。わかりやすいのは、鉄瓶で沸かしたお湯で、お茶やコーヒーを淹れたときの味わいの違いですね。飲み比べてみれば、鉄瓶を使ったほうが、断然美味しいですよ。

担い手づくりへの想い

野中:山形鋳物という、この美しい伝統工芸を未来に残していくために、その技術を継承する担い手づくりも大切だと思います。その現状について教えてください。

増田:それぞれの暖簾を守っていくことに、どちらの工房も苦労されているようですね。後継者の育成という意味では、芳武先生も熱心に取り組まれていましたし、僕もその想いを受け継いで、東北芸術工科大学の創設当時から、非常勤講師として20年ほど学生さんたちと接してきました。

野中:将来の担い手は、育ってきているのでしょうか?

増田:昔は、徒弟制度というものがあって、若い人を工房に住まわせて育てていましたが、いまではそれも叶わない。鋳物づくりには、相応の設備が必要になりますから、最初から一人で独立することはきわめて困難です。それを後押しするようなしくみが必要なんでしょうね。たとえば暖簾をたたむ工房があるのなら、その暖簾や設備ごと、次の担い手へと譲り、バトンタッチしていく。そうして鋳物づくりにかけるつくり手の想いを、未来につないでいくことが大切だと思っています。

野中:増田さんは、グッドデザイン賞をはじめ、数々の賞を受賞されています。そのような脚光を浴びるような魅力的な作品を数多く世に送り出すことによって、山形鋳物が注目され、その技術を身につけたいと思う人材を惹きつける力になるのではないでしょうか?

増田:そう願いたいですね。このショールームを開設したのも、そんな願いがあってこそなのです。ここに来て、一つひとつの作品を手に取り、山形鋳物の美しさや深い味わいを感じることで、興味を持ってもらいたいですね。芳武先生が手がけた山形鋳物のデザインを復刻し、このショールームに展示しているのも、同じようなねらいがあります。

野中:私も、この空間に身を置くことで、山形鋳物の魅力を感じることができたような気がします。最後になりますが、鋳心ノ工房さんの今後についてお聞かせください。

増田:家族でやっている小さな工房ですので、末長く仕事を続けていきたいですね。息子も手伝ってくれていますから、彼の成長を見守りながら、好きな鋳物づくりを続けていけること、山形鋳物を暮らしに取り入れてみようとここを訪ねてくれるお客さまとお会いできることが、僕にとっていちばんの喜びです。

野中:素敵なお話をたくさん聞けて、とても充実した時間を過ごせました。本日は、ありがとうございました。

インタビューを終えて

増田さんがデザインされた山形鋳物を見させていただき、繊細で美しく、オシャレな作品の数々に感動しました。グッドデザイン賞に輝いた作品もたくさん並べられていて、どれも素敵で、おうちで使いたい!と見惚れてしまいました。このような伝統工芸品を、生活のなかに取り入れることで、気分も上がり、豊かな心で、丁寧な暮らしができそうです。

私の祖母も、昔から鉄瓶でお湯を沸かして飲んでいました。幼い頃から「鉄」を身近に置いて、長く大切に使っていたことに感心していました。今回の取材を通して、山形鋳物の可能性や、増田さんをはじめ伝統工芸に取り組まれてきた方々の、ものづくりへの熱い想いが伝わってきました。山形鋳物を、まずは生活のなかに取り入れて、触れてみること、そして職人さんたちの想いを感じながら、伝統美の良さを知っていくことが大事だなと思います。

ケトルを試してみましたが、まろやかで美味しい白湯が出来上がり、さらには鉄分も摂取できて健康になれる!良いことずくめですね。
こうして先人たちから引き継いでこられた技術を生かした良いものたちを、長く丁寧に使い続けることを、私たち世代も大切にしなければならないなと思います。
ちなみに私は、増田さんがデザインされた鋳物のお香立てでお香を焚いて、ヨガをしたいなと思いました♪

野中 葵

インタビュアー

野中 葵AOI Nonaka

福島県生まれ、千葉県育ち。2008年、ファッション雑誌『ニコラ』(新潮社)の第12回ニコラモデルオーディションで9,822人の応募者の中からグランプリに選ばれ、2008~2013年ニコラ専属モデルとして活動。雑誌、CM、ショーモデルとして活躍する。第49回ミス日本コンテストでは「2017ミス日本みどりの女神」に選ばれた。この活動経験から、森林や地球の生態系について深い関心を持ち、独自の目線でメッセージを発信する活動を続けている。

鋳心ノ工房 代表取締役 増田尚紀

鋳心ノ工房代表取締役 増田尚紀 静岡県浜松市出身。大学を卒業後、恩師である芳武茂介教授が営むデザイン事務所に勤務。この間、芳武先生の命を受け全国各地の地場産業の現場を巡る。その後、芳武先生の出身地、山形に移り住み、400年あまりの歴史を有する山形鋳物の老舗、菊地保寿堂の職人さんたちから鋳物づくりの技術を学ぶ。1997年独立。日本に伝わる鋳物の伝統美を今日の生活様式に提案する「鋳心ノ工房」を設立。2012年から連続4年の「グッドデザイン賞」など数多くの受賞歴がある。

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