旅の道連れは、山形の地に生きた詩人の言葉。
『すぎ来しみちは なつかしく
ひらけくるみちはたのしい。
みちはこたえない。
みちはかぎりなくさそうばかりだ。』
DiscoverYamagata
-さあ、山形の旅へ出かけよう。
※文中引用:真壁 仁「峠」より
「山形」という県名は、現在の山形市の南側が「山方郷」と呼ばれていたことに由来するといわれている。その名の通り、県域の約7割を山地が占め、東には奥羽山脈、中央には出羽山地が走り、蔵王、月山、朝日岳、飯豊山、島海山いった名峰が並び立つ。山々に囲まれるように米沢、山形、新庄の各盆地と庄内平野が広がり、その中を縫うように流れるのが、母なる川=最上川だ。
江戸時代、最上川の流域は舟運で結ばれ、酒田湊経由で上方と直結。紅花や青苧(あおそ)などの特産品が京都や大阪に運ばれ、一方では、上方文化の影響を強く受けることとなった。また、流域に広がる豊かな土壌は多くの実りを生み、高級さくらんぼ「佐藤錦」をはじめ、ぶどう、りんごなどの果物の名だたる産地のひとつとなっている。
かつて山形を「大都市である東京や大阪、日本の歴史を残す京都や奈良とも異なる”もうひとつの日本”」と評した、元駐日米国大使のエドウィン・O・ライシャワー氏。
彼の目に山形の文化や自然、その個性はどう映ったのだろう?
山形の風土に根づき永く受け継がれてきた生業の数々…。
その生産者を訪ね、それぞれのRootsを辿る先に、“もうひとつの日本”との新しい出会いが待っているかもしれない。
今回は、「ニッポンの魅力、再発見。」をコンセプトに日本の魅力を伝え続けるDiscoverJapan 高橋編集長をナビゲーターとして迎え、ヒト、モノ、コトのRootsを辿る。
山形県のほぼ中央に位置する河北町は、山形空港を表玄関とし、山形新幹線さくらんぼ東根駅、山形自動車道寒河江インターチェンジから車で15分程の距離。江戸時代から明治初期にかけて、最上川の舟運による紅花の集散地として栄え、上方の文化がこの地にもたらされた。谷地地区で毎年開かれる「谷地ひなまつり」では、享保雛や古今雛などが公開され、大切に受け継がれてきた雛文化の絢爛さに触れることができる。
1919年(大正8年)創業の阿部産業株式会社。そのRootsは草履の仲買いにある。生活様式の変化に合わせ、草履から室内履きへと主力商品をシフト。創業99年目の2018年には、「スリッパ」の呼称を「ホームシューズ」と改め、ファクトリーブランド「ABE HOME SHOES」を誕生させた。ものづくりの面でとてもクオリティが高いという印象のある山形県にあって、ABE HOME SHOESは何をめざすのか、話をうかがった。
高橋 ABE HOME SHOESの帆布・バブーシュを履いてみましたが、軽くてフィット感があり、かかとを立てても潰してもとても履き心地がよかったです。もともとは、草履の仲買いとして創業されたそうですね。
阿部 1919年に祖父が草履を作り始め、父の代にスリッパに転換し現在に至っています。河北町はもともと草履の日本一の産地で、時代の変化とともにスリッパ産地へと変わっていったのですが、生産拠点が中国などに移り始め、かなり打撃を受けることになりました。そこで取り組んだのが、デザインによる海外製品との差別化です。米沢織の生地を使った商品などにチャレンジした後、2018年、「ABE HOME SHOES」という新たなファクトリーブランドを立ち上げました。その第一弾が帆布・バブーシュです。バブーシュはモロッコの方から入ってきたものですが、皮の臭いがきつく、履きやすさという点でも問題がありました。多くの人に履いていただけるようなものを作りたい、作り手の思いを消費者のみなさまに届けたいという思いから、東京在住のデザイナーの方にも力添えいただき、開発がスタートしました。
高橋 デザインという面でいうと、色や形だけでなく、地域固有の風土をひも解き、さらに販路も含め考えることが必要だと思います。帆布・バブーシュの販売開始後、国内はもちろん、海外からもたくさんの引き合いがあると聞きました。販路獲得のための何か特別な戦略はあったのでしょうか。
阿部 ギフトショーに帆布・バブーシュを出展したところ、あるセレクトショップから声を掛けていただきました。そこで販売が始まると、さらに別のお客さまから引き合いがあるというように、どんどん販路が広がっていきました。その後、アメリカ向けの商品として、環境に優しいソールを採用したものをラインナップに加え、さらにネットを通じてイスラエル、スペイン、香港、台湾、中国などからも引き合いをいただいています。コロナ対策のため、帰宅後、室内履きに履き替えるという新しい生活習慣が広がっていることも背景にはあるのかもしれませんね。
高橋 新たな地場産業を起こそうとする時、いろいろなものを作り過ぎてしまい、逆にわかりにくくなってしまう、ぶれてしまうというケースが多くあります。その点、帆布・バブーシュによって一点突破を図ったというのが、戦略としてとてもシンプルで、その潔さが成功の要因かもしれません。草履作りからスタートし帆布・バブーシュへ、100年以上の歴史の中で受け継がれているものはありますか。
阿部 草履作りが盛んになった明治時代、この地域には農業以外の産業はありませんでした。貧しい家計の助けにと始まったのが草履作りです。草履作りの工程の一つに、藁を編んだものを圧着する工程があるのですが、そのための機械を河北町の大先輩が発明したのです。その結果、産業化が図られ、この地域が日本一の草履の産地になりました。かつて草履を編む作業は農家のおばあちゃんたちが担ってくれていました。草履からスリッパに変わっても、やはり内職で手伝ってくれたのはおばあちゃんたちです。そういう意味で、この産業は地域に支えられています。地域の産業を守り、地域を少しでも豊かにしたいという思いは先人たちも同じで、現代の私たちにも確実に受け継がれているものだと思います。
高橋 ものづくりで成功しているところは、みんな地元を大切にしていますね。そういえば、帆布・バブーシュに「MADE IN KAHOKU」という表示が付いていました。
阿部 「MADE IN YAMAGATA」ではなく、河北町を知ってもらおうというのが私たちの考え方です。「誰も知らないよ」という言われ方もしたのですが、「MADE IN KAHOKU」にはやはりこだわっていきたいです。
高橋 創業100年を超え、さらにこれからの100年に向けてどんなビジョンをお持ちですか。
阿部 日本の伝統的ないいものとコラボし、それを世界に出していきたいと思います。また、ファクトリーブランドとしてやっているので、多くのみなさんに工場を見学していただけるような体制を整えたいと考えています。工場を見学しながら、スリッパ作りを体験し、職人さんとの会話を楽しんでいただく。また、地元の方々にも工場を見学してもらい、スリッパ作りが地元の産業だという認識を共有できたらと思います。
高橋 体験は価値になりますからね。ぜひ頑張ってください。山形県を訪ねる機会があれば、私も工場を見学させていただきたいと思います。
山形県の県庁所在地山形市は、最上家の城下町。70万坪にもおよぶ広大な山形城は、江戸城、姫路城にも匹敵する全国でも有数の平城だったという。山形は、交易によって京文化や江戸文化がもたらされ、商人町としても栄えた。市内にはいまも蔵座敷や店蔵が残り、商人たちの繁栄がうかがえる。松尾芭蕉の句で有名な山寺、蔵王温泉などの観光スポットにも程近く、さまざまな楽しみ方ができる街でもある。
市内十日町にある乃し梅本舗佐藤屋の本店は1934年(昭和9年)の建築、その創業は1821年(文政4年)にまで遡る。当時、出羽三山詣での旅客で賑わっていた羽州街道沿いの山形宿で創業。紅花染めの原料となる梅の栽培が盛んだったことから、「乃し梅」を完成させたという。乃し梅のRootsとして伝統的な製法にこだわりながら、和菓子のイメージを変えるさまざまな素材とのマリアージュにも挑戦。そんな自由さの源に触れてみたいと思った。
高橋 そもそも、なぜ山形で乃し梅が誕生したのか。そのあたりからひも解いていただきたいのですが。
佐藤 佐藤屋の創業は江戸時代、文政年間になります。その当時、出羽三山詣でというのが流行っていて、その参道でお菓子屋を始めたというのがそもそもの起こりです。乃し梅という菓子は、薬が由来というように言われていますが、佐藤屋の初代が薬屋の次男坊で、乃し梅のもととなるレシピを持っていたと聞いています。山形といえば紅花ですが、紅花から色素を採るのに必要だったのが、梅の実の酸です。これを使って色素を採るため、この地域は梅の生産も盛んだったのです。その後、ものを固めるための寒天が流通するようになり、いまの乃し梅の形になりました。
高橋 水戸など他の地域にも乃し梅はありますが、発祥はこの山形だということですね。
佐藤 梅の有名な場所には大体乃し梅があります。しかし、梅園の有名なところは梅の産地ではありません。あれは、花を見るための梅ですから。もう一つの理由が、保存を効かせようとする場合、大概干して、いったん乾燥させたものを必要な時に水で戻して食べる、という山形ならではの食文化です。寒天を使ったみずみずしい状態のものを、干して水を抜き日保ちさせようという乃し梅の製法は、とても山形らしいものではないでしょうか。最盛期には、電車の後ろに弁当売りとサクランボ売り、乃し梅売りが乗っていたというエピソードがあるくらい繁盛し、20~30軒の乃し梅を作るお店があったということです。
高橋 ちなみに現在はどんな状況なのでしょう。
佐藤 山形県内にはまだそこそこ残ってはいるものの、県内産の梅を100%使用し、干すという作業など伝統的な製法で今も作っているところは数軒程度に限られてきていると思います。何しろかつての梅の木の多くがサクランボにとって変わられてしまいましたから。現在は、契約栽培していただける農家さんを探し、梅の苗木を届け栽培していただいています。山形県産の梅にこだわるのは、山形のものだから使うというのではなく、山形のものが良いからこそのことです。同じ品種の梅を青森県から仕入れたことがありますが、山形産に比べ甘くなりすぎました。やはり山形の気候や風土が、私が求める梅を育んでくれるのだと思います。山形産の完熟梅については、他では代えが効かないものだと実感させられる経験でした。
高橋 伝統的な製法での乃し梅作りにこだわり続ける一方で、現代の感覚を取り入れた「ちょっと自由な」和洋菓子作りにも挑戦していますね。
佐藤 小学生や高校生のみなさんが老舗見学ということで工場見学にやってきますが、乃し梅を食べたことがないという子どもたちがとても多い。残念ながら、それが現状です。このままではいけないということで始めたのが、乃し梅を乗せたチョコレートといった新商品の開発、そして乃し梅と出会う機会の創出です。夏祭り会場ではかき氷に乃し梅のシロップをかけ、提供しました。「乃し梅って何?」というお子さんがいれば、それが乃し梅について説明するきっかけになります。この乃し梅のシロップはレシピ本とともに販売し、日常の飲食の中で乃し梅の味わいを知っていただけるように工夫しました。
高橋 それにしても佐藤さんはアイデア豊かですね。そうしたアイデアはどんなところから生まれるのでしょう。
佐藤 異業種の方々との交流を大切にしているほか、これまで和菓子が関係しなかった場所、例えばお酒の場やアート会場での和菓子の提供に取り組む中からアイデアは生まれてきます。大切なのは既成概念にとらわれないこと。菓子の色合いはアートや山の中で出会う自然の色から、味は料理やカクテルなどから着想することが多いですね。
高橋 佐藤屋さんのお店のほか、販売はどんなところで行っているのでしょう。
佐藤 自店のほか、百貨店の和菓子コーナーでの販売が中心です。コロナの関係で在庫が増えてしまったこともあって、2020年4月にサイトを立ち上げネット販売を始めると、想像以上の反響がありました。酸っぱい和菓子というのは種類が少なく、ハマる人はハマるという乃し梅の強みを再認識することができました。
高橋 アイデンティティとしての乃し梅を大切にしながら、従来のイメージを変える「ちょっと自由な」和菓子作りによって、乃し梅ファン、和菓子ファンは着実に増えていくことでしょう。SNSでの情報提供やさまざまなコラボを通して、山形らしさの代名詞として乃し梅がもう一度確かな位置を獲得できる、そんな日がやって来ることを願っています。
岡山県生まれ。建築やインテリア、デザイン系のムックや書籍など幅広いジャンルの出版を手掛けたのち、2008年に日本の魅力を再発見をテーマにした雑誌、Discover Japanを創刊。編集長を務める。2018年11月に株式会社ディスカバー・ジャパンを設立し、雑誌メディアを軸に、イベントや場づくりのプロデュース、デジタル事業や海外展開など積極的に取り組んでいる。現在、金沢市伝統工芸品産業アクションプラン2020策定検討委員会委員、環境省グッドライフアワード実行委員、京ものユースコンペ審査員、高岡市クラフトコンペ審査員、高山市観光経済アドバイザー、経産省や農水省関連のアドバイザーなども務める。JFN「オーハッピーモーニング」に毎月ゲスト出演中、日本テレビ系列の番組「the SOCIAL」のゲストコメンテーターを務めるなどメディアを超えて、日本の魅力、地方の素晴らしさを発信中。
Discover Japan:
https://discoverjapan-web.com/
山形仏壇の彫刻師が一つ一つ手彫りしています。素材は仏壇彫刻に使われる、白く美しいシナ材を活用し、モチーフは仏壇に使われているものや伝統的に使われているものの中で縁起のいいものや、吉祥柄から選定。時を経るに従って変化していく色艶をも楽しめます。つけているだけで心おだやかになれるブローチです。
山形仏壇の伝統産業である仏壇彫刻の技。山形仏壇は、江戸時代中期にはじまった日本の伝統的工芸品です。山形は東北でも有数の仏壇生産地で木や漆といった天然素材の温もりと堅牢性が特徴。繊細、かつ荘厳な美しさが魅力です。江戸時代に、江戸で彫刻技術を習得した星野吉兵衛が山形に戻り、仏具や欄間(らんま)の製作を始めたことが山形仏壇誕生のきっかけになりました。森林資源に溢れる山形では、木工が地域に根付き、漆産業も発展しております。この山形仏壇の魅力を広める入り口として考えたのが、生産品である“kibori”ブローチです。
山形県の自社工場にて女性職人が製造する、日本発オリジナル財布・革小物ブランドです。上質な素材を使い丁寧に仕上げたこだわりの逸品です。
また、「山形牛ラウンドファスナー長財布」は、山形牛の革を細く裁断して編み込んだものになります。
脂肪分が多い「山形牛」の素材を余すことなく使うために、革の厚さやメッシュの幅調整を繰り返し試作し、編みこみメッシュを採用。細く裁断した革を一つひとつ手編みで生産。使い込むほど、繊維の中にある脂が出てきて、通常では味わえないグレージング(経年劣化)を楽しむことができます。
山形県新庄市に工場を持ち、ハンドメイドで製品づくりを実施。企画から製造、販売、修理までを一貫して行い、雪国山形の女性職人が一つひとつ手作業で丁寧につくり上げております。次の世代へ技術の継承を継続的に行っており、
単なる「財布」ではなく、時を経てますます愛着の湧くものづくりを心がけ積み重ねてきた経験と、受け継いできた技術を若い世代へ継承してまいります。
シナノキに咲く“シナの花”を原料にシナの花コスメを生産。関川の暮らしから生まれたエシカルでナチュラルな製品です。
羽越のデザイン企業組合は山形県鶴岡市、温海地域を拠点にしています。企業名にある“羽越”とは出羽の国と越の国を足した地域を指す言葉。背中合わせにある、山形県の温海地域と新潟県の山北地域では“しな織”を始め、“焼畑農法”“灰汁文化”“塩引き鮭”など、言葉だけでなく、衣食住全てに共通するものが存在します。便宜上の区切りにとらわれず、この地で育まれてきた文化を大切にしていく考えです。
山形県鶴岡市の温海にある関川では、日本で最古の織物と言われているしな織が継承されています。羽越しな布は伝統的工芸品に認定されており、冬は雪に覆われる厳しい自然条件の中で、女性の貴重な現金収入源として、また、生活必需品として、必要不可欠な産業として「しな布」の技術・技法が受け継がれてきました。しかし、作る人、使う人の高齢化が進んでいるのが現状です。そこで、先人がつくり上げてきた関川の自然・文化・暮らしを未来につなげ守り発展させるため“umu project(ウムプロジェクト)を発足。「郷に新たな生業を創出し、世界中に関川の魅力を届ける。」ことを掲げ、関川の過去と未来をつなぐ役割を担うことを決意しました。その挑戦の第一弾がシナの花のコスメです。