ここからナビゲーション

山形県産品ポータルサイト いいもの山形

ここから本文

Feelに出会う、瞬間。土が育む、やさしさ。

MENU

いいもの山形通信vol.5で探るのは、山形の豊かな大地によって育まれた、やさしさとぬくもりに満ちたプロダクトと、それを手がける生産者の話。山形だからこそできた味わいやこだわり抜いた素材が持つ手ざわり、そこで生まれる心地よい音色を一緒に堪能しませんか。

山形は、かつて東北を巡った探検家の心を、その豊穣な暮らしぶりと穏やかな情景で虜にした。またあるときは、同じく東北を巡ったデザイナーを民芸の技術レベルで驚かせ、何も知らぬ農村部の者たちへ仕事を頼み、自らの作品を手がけたそうだ。以来、それらの逸話は時代を超えて、長く語り継がれることとなる。

地域に息づく風土と文化に触れ、心動かされた彼女たちは、英国人女性の探検家であり紀行文作家であるイザベラ・バード。そして、20世紀を代表するデザイナーのひとりであるフランス人女性デザイナー シャルロット・ペリアンである。この地に根付いた豊かな風土と、卓越したものづくり技術の発見は、彼女たちにとって、みちのく=未知国(みちのくに)での些細なできごとだったのかも知れない。だが、それらは結果的に山形が持つポテンシャルを、世界中に知らしめることになった。

県域の7割を山地が占め、冬季間には農業をはじめ、仕事がままならないほどの積雪がある。気温の寒暖差は激しく、そびえ立つうつくしい山々は豊かな恵みを与える一方で、乏しい日照条件を人々に約束する。そんな厳しい環境は、いつしかものづくりの精神に魂を吹き込み、この山形をものづくりの都とした。

Feelに出会う、瞬間。あなたなら何を思うのだろう。この地の風が織りなすいろどりや、土が育むやさしさが生むすばらしき製品の数々は、どのようにして出来上がったのだろう。いいもの山形通信では、プロダクトとその生産者の背景を、五感を通して紐解いていく。

カバー写真 撮影地:丸池様(遊佐町)

Read more

いいもの山形通信バックナンバーはこちら

株式会社寒河江商店 COZAB GELATO

山形の果樹の個性を
イタリア菓子に閉じ込めて

山形県山形市 /
株式会社寒河江商店
COZAB GELATO

山形市の山寺は、天台宗の高僧・慈覚大師により貞観2年に建立されたと伝わる宝珠山立石寺を中心に、古来より東北有数の霊場として発展してきた地区である。奥の院までは杉林を縫うように続く石段が荘厳な雰囲気を醸し、また俳聖・松尾芭蕉は、かつてこの地を訪れた際に“閑さや”ではじまる、あまりにも有名な句を残している。そんな山寺をひと目見ようと、昭和の中頃からは県内でも有数な観光名所として多くの人々が訪れるようになっていった。しかし、地域が観光で賑わうようになった一方で、山寺は市街地から離れた集落であり、日々の買い物などを考えれば、不便はつきもの。そのため住民の生活は、地域に根差した食料品店「寒河江商店」によって支えられていたという。高齢だった主人は早朝から仕入れに出かけては、人々に食料品を配達するなど、生活に欠かせない仕事に従事していたそうだ。現在、そのお店はすでに閉業しているが、跡地に一軒のお店が開店した。それが、『COZAB GELATO(コザブジェラート)』。『株式会社寒河江商店』が手がける、自家製ジェラートの専門店である。

同社代表取締役の石田真澄さんは、食料品店「寒河江商店」主人の孫であり、祖父から店舗を譲り受け、夫の石田大さんとともに山形へUターン。2018年にジェラート専門店を立ち上げた。以来二人三脚で、山形の素材を使ったジェラートの開発と販売に務めている。素材そのままを生かしたその味わいには、人を虜にするような力強さがある。おふたりのジェラートには、いったいどんな思いが込められているのだろう。

祖父の背中を
追いかけるように

なぜ山寺で、起業したのでしょう。

真澄 祖父は山寺で、ずっと食料品店を営んでいました。この地域にはご年配の方が多く、祖父の仕事は自然となくてはならないものになっていきました。晩年は、祖父も仕事としてではなく、ライフワークとして続けていたように思います。地域の人を大切に思っていましたし、逆に地域の方からも大切に思われていた。幼いころは、そんな祖父の働く姿を見て過ごしていました。
私は大学卒業後に上京し、飲食とは無縁の仕事をしていました。仕事も私生活も充実していて、そのまま東京で過ごしていくものだと考えていました。ところが、夫と結婚して子どもにも恵まれ仕事をしながら育児をしてく中で、自分が生まれ育った環境で子育てをしたいと思うようになりました。そんなときです。祖父がお店を閉めるという話を耳にしたのは。そして私たち夫婦にその場所を譲るというのです。「山形に帰ろう!」私よりも先に、夫がそう言ってくれました。

30歳のときに料理人を志し、イタリアへ渡ったのですが、そこで私はイタリア料理の世界観に触れました。それはとても地域風土に根ざしたもので、郷土の食が大事にされていたのがとても印象的でした。帰国後しばらくして妻と出会ったのですが、はじめて妻の実家で食べた夏野菜を細かく刻んだ山形県の郷土料理“だし”が、山形出身ではない私にとって衝撃的だったのを覚えています。義父によれば、それこそが畑から獲ってきたばかりの野菜でつくった“だし”の味なのだそうです。地域の食材を新鮮なうちに食べる。当時東京にいた私は、そんな贅沢なことを普通にできる山形に、イタリアで見た光景を重ねました。そして、いつか山形で暮らしたいと考えるようになっていました。だからこそ、山形で暮らせるチャンスを逃したくありませんでしたし、料理人としての経験がある自分なら、妻と一緒にできることもあると考えたのです。それから夫婦で話し合いを重ね、山形の美味しい素材を使ったジェラートを、祖父のお店があった場所で販売することにしたのです。すぐにイタリアのつてを辿り、かつて働いた街のジェラート店に弟子入りさせてもらいました。

素材第一、“ありのまま”の
味わいを生かして

販売するジェラートへのこだわりを教えてください。

山形の果樹を使ったジェラートの事業をするならば、まずは果樹のことを知るべきだと、果樹園の方にお願いして園地の手伝いをさせてもらいました。そのうち自然と生産者さんの知り合いが増え、それから数年経った今は、実際に園地に伺って味を確認しながら、店で使用する果樹を模索しています。またジェラートづくりにおいては、いかに自然のままの果樹の味わいを生かすかにこだわっています。それは、“素材にこだわる”ではなく、“素材にこだわる生産者さん”の邪魔をしないようにジェラートをつくることなのです。 “Materie prime(素材第一)”は、イタリアで学んだ教えですが、山形でジェラートの事業をはじめて、本当の意味で腑に落ちた気がします。

真澄 味のゴールを決めないことを、私たちは大事にしています。例年なら甘い苺が、長雨のせいで糖度が低い。そんなときは糖分を足すのではなく、別の食材であえて酸味を足して、そのときの素材の個性を生かしたジェラートづくりを心がけています。その土地が、そのときの条件で育んだ果樹を受け入れること。それこそが、味を楽しむことなのだと、広く伝えていきたいと思っています。

食で、人と人とを
繋ぐことができるなら

これから株式会社寒河江商店が目指す目標はなんでしょう。

とにかくこの場所に、たくさんの人を呼びたい。地方が生き残るためには、外の人が来てくれることが必要だと考えています。山形のおいしさが詰まったジェラートで、山形に、そして山寺に、もっと人を呼べるようなお店になりたいです。

真澄 私は、ギフト用の商品の充実を図っていきたいと考えています。数年前からはじめた通信販売も、今では遠くは九州のお客様から注文いただくなど、少しずつですが軌道に乗りつつあります。観光で山寺を訪れた際に、店舗で食べたというお客様からのリピートも多く、ありがたいばかりです。また、企業様のOEMの事業もさらに伸ばしていきたい。私たちにとっては挑戦ですし、コラボから生まれる出会いもあり、そこから新たな山形の商品が生まれたら面白いですよね。そして、山形で収穫された素材の味わいを、多くの方に知ってもらえるようなプラットフォームになりたい。つまりは、消費者の方と生産者さんを繋ぐような存在になっていければと考えています。食は人間にとってなくてはならない大切なものですから、そのことで山寺に、そして山形に少しでも貢献できたなら、祖父の後を継いだと胸を張って言えるようになるのかな。

株式会社寒河江商店
COZAB GELATO
  • [住所]
  • 〒999-3301
    山形県山形市山寺4510-2
  • [TEL]
  • 023-695-2335
  • [取り扱い商品]
  • ジェラート
Read more

軽部草履株式会社

先人の技術と土地の風土が
日本一の草履をつくる

山形県寒河江市 / 軽部草履株式会社

山形県では、かつて冬季間の農家の収入源として、養蚕や牧羊などのさまざまな産業が生まれたが、そのひとつの草履づくりも、身近にあるものでできる内職として多くの農家の間で広まった。特に、最上川の支流「寒河江川」が流れる寒河江市や河北町からなる西村山地域は、豊穣な稲作地帯だったこともあり、収穫した稲を素材に草履づくりが盛んな地域となる。そのため同地域には、大小さまざまな草履業者が100社以上存在し、そこで生産された草履は、その質の高さから「山形草履」と呼ばれ全国的に見ても高い価格で取引されていたという。ピーク時には日本の総生産数の約8割を占め、県の主幹産業のひとつとして、草履はその一角を担っていた。

しかし、終戦を迎えると、日本にはさまざまな欧米の文化が押し寄せ、生活様式も和式から洋式へと激変する。洋装の普及により履物も靴が主流となり、それに伴い草履業者の多くは、スリッパやニットをはじめとする、別事業への転換を余儀なくされた。そして、草履の生産数は急激に減少し、特に一般家庭では、あまり目にすることのない存在となったのである。
だが、寒河江市には令和となった現在も、そんな伝統のある草履をつくり続ける企業がある。大正2年に、家族のみの個人事業からはじまった『軽部草履株式会社』は、徹底的に手編みによる草履製造にこだわり、国内の総生産数9割以上のシェアを担っているという。同社海外開発部部長の軽部聡氏に、山形における草履づくりへの思いを訊ねた。

ふたりの男が生んだ
草履の奇跡

「山形草履」の起源についてお伝えください。

軽部 産業としての「山形草履」の起源は、江戸時代の終わりのころまで遡ります。当時の山形県の農家はとても貧しく、雪深い冬の間の現金収入を得る手段が何かしら必要でした。そこで、河北町の名家の出身だった田宮五右衛門という方が、米どころの山形であればと、稲藁を使った草履づくりに目をつけたのです。その頃の有名な草履産地は三重と静岡、奈良県でしたが、田宮氏はそれらの産地へ赴いて、草履づくりのノウハウを学び、そのすべてをここ西村山へと持ち帰りました。その後、氏の熱心な指導もあり、少しずつですが、農家の間で生活の糧としての草履づくりは普及し、囲炉裏端を囲みながら、親が子に草履づくりを教える風景が日常化していったそうです。それからしばらくときは流れ、ある男の発明により、ただ山形でつくられたという一般的な草履だったものが、「山形草履」と言われるまでになりました。それが田宮五右衛門氏の子孫・田宮五郎氏の発明“草履表圧搾機”。この田宮家のふたりの男の存在なくして、「山形草履」は誕生し得なかったのです。

また、従来の草履が稲藁のすべてを編み込みつくっていたのに対し、当時の山形では稲藁の芯である、柔らかなストロー状の部分のみを使って草履をつくっていました。肌触りなどの品質自体は、その状態でも優れていたと考えられますが、「山形草履」の製造工程においては、そこからさらに金型圧搾機と呼ばれる機械を用いて熱と圧力を加えます。そのことにより草履表面の目が揃い、厚さも1センチから3ミリほどに圧縮され、飛躍的に履き心地と見た目が向上するのです。完成した「山形草履」は市場で多くの人々に求められることになり、ついには日本一の生産量を誇るまでに育っていきました。

山形草履に欠かせない
幻の酒米

草履にはどんな稲藁を使っているのでしょう。

軽部 「山形草履」が流通していた当初、使っていたのは豊国という品種の稲藁でした。特徴としては稲が長く美しいのですが、その稲の長さが仇となり、大風などで倒れやすく、また、減反政策などが影響し、一時生産が途切れてしまいました。しかし、平成の時代に寒河江市の酒蔵が、酒米としても優れていた豊国を復活させたことにより、当社でも再びその美しい稲藁を使えるようになったのです。西村山地域一帯は、山形県でも朝日山系の花崗岩で構成され、水が豊かな土壌です。そのためか、ここの地域で育った豊国は、不思議と黒ずむことはなく、太くて丈夫という特徴があります。おかげで山形が日本一の草履生産量を誇っていた頃の、色つやが良く、輝くような「山形草履」を復刻できたのです。このように草履づくりは、農業の延長線上にあるものです。その意味で「山形草履」は、ここ西村山地域の風土がなければつくれないものなのでしょう。だからこそ、私たちは山形の地で豊国を使用した草履をつくり続けています。

伝統の手編みの技術を
次代へとつなぐ

これから軽部草履株式会社が目指す姿をお伝えください。

軽部 現在、草履づくりを行う職人の数は年々減ってきていますが、手編みによる草履づくりの技術は、一旦途絶えてしまったらなかなか戻すのが難しいものです。そうならないためにも、技術の伝承に当社は力を入れています。先代は、手編み草履の技術の継承先として海外に注目し、今から40年ほど前に中国へ赴いて、現地でも収穫できる竹やトウモロコシの皮を使った草履を考案。職人を目指す中国人の方々に、手編みの技術を伝えました。次は私も“海外開発部長”として、材料を自給できるどこか別の国を探し出し、手編み草履という日本の技術を伝えたいと考えています。
近年「山形草履」は、一般的な需要のほか映画やCMの小道具、相撲の行司の履物として、また伝統芸能に欠かせないものとして、多くの場面で使用されるようになり、私たちも少なからず日本の文化に携わらせていただけるようになりました。今後も、さらに多くの方に注目され愛用してもらえるよう、「山形草履」という伝統の発信と、その継承に努めていきたいと思います。

軽部草履株式会社
  • [住所]
  • 〒991-0061
    山形県寒河江市中央工業団地51
  • [TEL]
  • 0237-77-5322
  • [取り扱い商品]
  • 山形草履
Read more
Read more

土地が育む木々達に
家具づくりへの思いを
寄せて

山形県山形市 /
家具工房モク・
木の家具ギャラリー

山形市は黒沢に、木工所とアトリエを構える『家具工房モク・木の家具ギャラリー』。主宰であり、木工職人の渡邊英木氏は、この場所で山形県産の無垢材を使用した、一点物の家具製作に従事している。驚くのは、木材の調達までも行なっているということ。この地に根を張る木々の伐採から、乾燥、デザイン、製造販売までを一貫して行い、特に曲がりやうねりなど、自然のままの木のかたちを生かした家具は、氏の作風として知られるところである。

木工家具の世界には、どのように進まれたのでしょう。

渡邊 木工家具の職人を志したのは、まだ大学生の頃でした。当時はバブル景気の絶頂にあり、大量生産と大量消費が横行していた時代でしたから、良い家具を数十年という単位で使うという考えは、もはや時代遅れとされていました。しかし、私の目には本物の木、無垢材を使った家具達は、とても魅力的に映ったのです。すぐに大学は中退。右も左も分からぬまま、憧れだけでこの世界に飛び込みました。

無垢材の家具の特徴についてお話しください。

渡邊 楓や栗、雷神木に胡桃など、樹木によって異なる色味や風合い、木肌の模様の美しさは、その家具がある空間にやわらかな印象を与えてくれます。そして、山の木が一本ずつ違うように、無垢材でつくる家具には、同じものがひとつとしてありません。なかでも魅力を感じるのは、木の「経年美化」です。例えば、栗の木でつくった家具は、はじめは白色をしていますが、時間の経過とともに、とてもゆっくりと美しいブラウンに変わっていきます。長い時間を共にするものとして、これほどおもしろいものはないと思います。

家具づくりをする上で、山形という土地の魅力はどこに。

渡邊 山形は、夏の暑さと冬の寒さの寒暖の差が激しい土地です。そういった環境下では、木はゆっくりと成長し、歪みが少なく目の詰まった良質な木材に育ちます。また、少し車を走らせれば、すぐに自然の木々を見に行けるのも魅力です。感覚的なことですが、“この木は天板にしたら良い。あの木はスツールにしよう”など、生い茂る状態を見ることでインスピレーションを受けることがあります。きっとその感覚こそ、ものづくりに必要なものなのかも知れません。これからも山形から、無垢材の家具の良さを発信していきたいですね。

Read more

初代から続く思いを貫き
日用品としての陶器を
目指す

山形県新庄市 / 新庄東山焼

『新庄東山焼』は、天保12年に新庄戸沢藩御用窯として涌井弥兵衛により開窯され、以来180年以上に渡り、人の暮らしに寄り添うような陶器をつくり続ける窯元である。“出羽の雪のかげりの色”と喩えられる青みがかった“なまこ釉”が特徴であり、また使い込むほどに風合いが増すと、多くの人々に愛されている。そんな新庄東山焼について、同窯6代目・涌井弥瓶氏に訊ねた。

初代はなぜこの場所で、開窯したのでしょう。

涌井 初代は新潟出身の陶工で、東北の諸国を巡り、作陶を学んだ後、秋田藩で瀬戸師の棟梁として働いていました。しかし、自らの陶芸を深めるために与えられた役職を捨てて旅に出たそうです。そして、道中で立ち寄った新庄の東山地区で、とても良質な陶土に出会い、一年間の試し焼きの末、新庄に残り開窯することを決意したのです。以来、時代とともに変わる人々の生活様式に合わせながら、代々に渡り茶器や土鍋などの日用品を、ときにはレンガや土管をはじめとする工業製品を作陶してきました。

新庄東山焼にはどんな特徴があるのでしょう。

涌井 一番の特徴としてあげられるのは、初代から続く“なまこ釉”です。海の海鼠の断面のように仄青く、そしてやわらかな白い筋が入り、まるで自然界の景色を切り取ったような色の濃淡を醸します。さまざまな土地に、さまざまな陶土がありますが、この青はここ東山地区の、鉄分を多く含んだ陶土だから実現できる色なのです。また、採掘される陶土は一般的なものよりも焼き締まり、割れに強く水漏れしないという普段使いに適った特性を持っています。初代は修行時代に、福島や秋田、宮城にも行きましたが、最終的にこの地を選んだという事実からも、開窯から続く東山焼の思いである、求められる日用品としての陶器をつくるという意思が伝わってくるようです。

今後はどのような作品を手がけたいですか。

涌井 先代達は時代に合わせて、生活雑器はもちろん工業製品など多種多様な作陶に挑戦してきました。もちろん、作家性というものは大事にしながら、それでも時代やニーズに合致する作陶を心がけ、使っていただくことを一番大切にしてきました。そういった新庄東山焼の姿勢を貫きながら、私も作家としての個性を持ち合わせていきたいものです。

Read more

米どころで生まれた米菓は
人と人との思いを繋ぐ

山形県酒田市 /
酒田米菓株式会社

米菓メーカー『酒田米菓株式会社』は、全国でも有数の米どころとして知られる庄内地方の酒田市にある。昭和26年に創業し、うるち米を原料とした米菓の製造販売を手掛けているが、なかでも同社の看板商品として成長したのが「オランダせんべい」。発売されたのは、今から60年ほど前のこと。当時は珍しかった3ミリという薄さとサラダ味のフレーバー、そして庄内地方の方言で“私たち(おらだ)のせんべい”を意味するキャッチーなネーミングで人気を博し、今では山形県民にとって、パリッとした歯ざわりとともに懐かしさや思い出を喚起させるソウルフード的な存在となっている。

米どころの地で、酒田米菓はどのようにして誕生したのでしょう。

高橋 当社の前身は、米穀業だったと聞いています。しかし、戦後間もなかった当時、米は配給制度の管理下に置かれ、地元の米を自由に売ることができなかったそうです。そこで、創業者の佐藤栄一は、地域の農業のためにも、米という地元の特産品を全国に向けて発信したいという思いから、せんべい用の生地をつくって販売する事業をはじめ、やがては生地づくりから米菓の製造、販売までを一手に担おうと酒田米菓を創業したのです。そして、試行錯誤の末に誕生したのが「オランダせんべい」。厚焼きのしょうゆ味という当時主流だったせんべいとは真逆の、薄焼きのサラダ味で売り出しました。

米菓製造へのこだわりと、地元との関わりについて

高橋 当社のオランダせんべいには、普通に家庭の食卓に上るような飯米を使用しています。そこには地域の農業とともに生きるという当社のポリシーがあります。近年、米の消費量は徐々に下降し、それに伴って農家の皆さんも減反や生産量を減らす傾向にありますが、せんべい製造を通して米の消費量を少しでも上げることで、この庄内地方の豊かな田園風景を守りたいのです。また、現在の製造過程は、ほぼ自動化されていますが、季節や天候、米の状態は常に一定ではないため、全行程で熟練の職人の手を加え、品質の保持を図っています。どんなに機械化が進んでも、職人の技術は当社の米菓づくりには欠かせません。

企業として、今後目指す展望を教えてください。

高橋 「オランダせんべい」を食べた感想を聞くと、 “懐かしい”という言葉がよく聞かれます。それは、発売から半世紀以上経ったことで、山形を象徴するようなお菓子として認識されたことを示しているのではないでしょうか。単なる米菓ではなく、誰かと誰かの記憶を繋ぐような一種のコミュニケーションツールとしての価値も出てきたように感じています。今後もお客様同士を繋げるような商品を開発していきたいですね。

Staff credit

粟野 智晴取材・執筆者(ライター)

1978年山形県山形市生まれ ライター。2004年から山形県で広告代理店兼情報出版社に勤務。2007年より同社タウン情報誌である「月刊山形ゼロ・ニィ・サン」の編集長に就任。2012年5月に退社しフリーランスとして独立。山形県の魅力探しに奔走している。

マチュ・モアンドロン取材・撮影者(カメラマン)

1978年フランス生まれ フォトグラファー。2006年に来日し、仙台の広告プロダクションで多くの広告やCMを撮影。2018年に独立。仙台を拠点にフリーランスのフォトグラファーとして活動中。フランス人ならではの切り口でシャッターを切る。

Back number

いいもの山形通信VOL01
いいもの山形通信VOL02
いいもの山形通信VOL03
いいもの山形通信VOL04

ページ上部へ